理事のリレーメッセージ

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平成20年度(2008年4月〜2009年3月)

2009年3月 理事のリレーメッセージ

デジタルと、人間

カメラとパソコン

年を取ると、耳が遠くなる。中世を舞台にしたヨーロッパ映画を観ていると、巨大な集音器を耳に当てたおじいさんが出てきたりして驚かされるが、補聴器の進歩はめざましく、現在のデジタル補聴器では性能はもとより、超小型化して着用していることさえ分からなくなった。
写真の世界も又、この数年のデジタル化で一変した。カメラと言えばデジタルカメラを指すようになり、これまでのカメラをフィルムカメラとか銀塩カメラと呼ぶようになった。
チョコレートひとかけら程のメディア一枚に、数千枚の写真を撮り込め、色や形を自由自在に変えられて、不要な失敗作は削除ボタンを押してどんどん消してしまうことが出来る。良い事づくめの様に思われるデジタル写真だが、この「削除ボタン」が曲者なのだ。
アナログのフィルムでは、一本のフィルムに失敗作も成功作(?)も記録されて残って行くが、デジタルの世界では、削除すると一瞬にして宙に消えてしまい痕跡を残さない。人間の記憶とは不思議なもので、この一瞬で宙に消えた分は全く記憶に残らない。つまり、失敗作は撮らなかったこと・無かったことになってしまうのだ。
人間とは、アナログそのものの存在だ。失敗しながら、何事かを学んでゆく。泣いたり笑ったり、つらい時や幸せと思える時、一瞬一瞬を積み重ねて生きてゆく。その人間の経験してきた、どんな一瞬も、デジタルカメラのように、削除ボタンを押して消すことは出来ない。
便利なものには、必ず落とし穴があるといわれる。コンピューターを始めとするデジタル世界とは、心してつき合ってゆきたいと思う。

理事 鈴木 龍一郎
(写真家・日本写真家協会会員)


 

2009年2月 理事のリレーメッセージ

新任のごあいさつ

雪景色

昨年から多摩同胞会の理事に就任しました。昭和55年に府中市医師会の理事になったとき、法人本部の新築記念式にお伺いして中城イマさんにお会いしたのが多摩同胞会を知る始まりでした。亡くなった浅川先生から同胞会が立派な仕事をしていることは聞いていました。その後、府中市立特別養護老人ホームあさひ苑ができ、内科配置医師の仕事をするようになりました。介護保険ができ、医師会の仕事も忙しくなり、辞めさせてもらいました。縁があって再び多摩同胞会の仕事をさせてもらうことになりました。よろしくお願いします。

理事 田口 俊夫
(府中市医師会会長)


 

2009年1月 理事のリレーメッセージ

福祉に働く喜びに感謝

2008年12月13日の法人創立記念日は、府中ホテルコンチネンタルを会場に開かれた理事会・評議員会に引き続き、職員全体会が行われました。なかでの永年勤続表彰では、あさひ苑開設当初に入職した勤続15年が29名、20年が4名、25年が1名、30年が2名に5年・10年を含め、計53名もの職員が坂本理事長より感謝の言葉と表彰状をいただき、鈴木常務理事より記念品を授与されました。

「おいてあわず、いてあわず、いやならとっとと辞めなさい」迫力ある一言に、朝礼に立ち並ぶ職員は思わず背筋を伸ばします。毎朝テキパキと指示を出す司令官、それが中城前理事長でした。私たちはこうした日々を積み重ねながら、法人の一員として働くことの厳しさと尊さを教えられる一方、施設入所者に対してはわけ隔てなく親身になってお世話するという福祉マインドを高め、培うことができたのです。

没後7年、中城前理事長の言葉は法人理念として大切に受け継がれています。そして職員は目の前の利用者と真剣に向き合い、安心と笑顔のお手伝いができることにささやかな喜びを感じて働いています。
私は多摩同胞会が末永く、幸せを求める人々の灯火であり続けて欲しいと願っています。
誰もが最初は1年生、あのおどおどしていた新米看護師の私が30年間、「福祉ひとすじ」を貫いて働かせていただけたことに深く感謝しています。
私の心の中に今も生き続ける理事長から「しっかりやりなさい」と今日も励まされながら。

理事 関 道子
(府中市立あさひ苑施設長)


 

2008年12月 理事のリレーメッセージ

追悼−11月3日突然に別れの日がきました−

法人の35年史は1980年に発行されました。この年史の「第2部施設はいま−新しい福祉にむかって−」のなかで、地域活動というタイトルの下、入浴サービスの一日をルポしています。ここに若き日のアライさんの姿があります。
1975年に府中市で最初の特別養護老人ホームである信愛泉苑が誕生し、翌年から府中市と協議しながら入浴サービス、そしてショートステイを開始して、府中市全域を対象に在宅サービスが始まりました。
明治学院大学で高齢者の在宅福祉を専門に学んでいたアライさんは学生時代からボランティアとして泉苑にかかわっていました。アライさんが卒業する年に府中市の委託を受けて泉苑ケアセンターが正式にスタートしました。この年がまさに1980年、新しい福祉は在宅サービスに向かっていました。そしてアライさんは泉苑ケアセンターの初代相談員になりました。
以来、在宅サービスの中心的役割を果たし、東京都社会福祉協議会センター分科会のマニュアルづくりや府中市社会福祉協議会のボランティアさんの講座や受け入れ、府中市内地域連絡会による他機関の方々との連携(この活動が後の府中市サービス調整会議に発展しました)、様々なことにとりくんできました。そして介護保険制度が導入されるときには、府中市の在宅サービスの水準を下げないために実態調査や勉強会などにも力を入れました。
しかし2000年に介護保険制度に移ってから、少し元気がないようにみえることがありました。心底「福祉」にこだわっているのだと何度も思いました。多くの職員から信頼され、高齢者福祉にこだわり続けて、余りにも若い50歳という年齢で彼岸へ旅立ってしまいました。ありがとう、アライさん。私にとってかけがえのない仕事上のパートナーでした。またいつの日かどこかで府中市の福祉について思い切り話しましょう。
そして今日(2008年11月28日)府中市長より府中市保健福祉功労賞(感謝状)がアライさんに贈られました。

常務理事 鈴木恂子
(社会福祉士)

※府中市立あさひ苑新居千秋前施設長は、2008年11月3日に急逝されました。謹んでお悔やみ申し上げます。今回はリレーの順を変更し、臨時にメッセージを掲載しました。 ホームページ担当

 

2008年11月 理事のリレーメッセージ

福祉サービス

イチョウ並木

私たち社会福祉法人が社会福祉事業において提供しているものがサービスであるということには抵抗がある。なぜなら、サービス業が提供しているサービスは、ホテルであれ、飲食店であれ、通常お客様の自由選択の対象である。最も自分の好みに合ったところを選ぶことができる。事業者は宣伝や勧誘を行うのを常とし、客もこれを利用する。
これに対して私たち社会福祉法人の営む社会福祉事業では、さまざまな理由により自分の生活を維持できなくなった人を救うことが本来の仕事である。お金もなく家族にも恵まれない人々は、選択の自由とか申請とか自己責任とか言われても、情報もなくどこに行ったらよいかもわからない場合が多い。だから、しばしば放置される。
多くの孤独死がある現状を考えたとき、早くこのような人を探し、必要な手助けをするのが私たちの仕事である。私は「福祉サービス」や「お客」という言葉は使いたくない。

理事 相羽孝昭
(社会福祉法人 アゼリヤ会 特別養護老人ホーム みやま大樹の苑 施設長)


 

2008年10月 理事のリレーメッセージ

福祉の心は健在

すすきと青空

多摩同胞会は昭和21年に始まりました。戦後、食べることも困難な母子を救うために開設した網代母子寮を皮切りに、多くの高齢者福祉施設をつくってこられた故中城イマ前理事長の行動力の源は「福祉への情熱」と「奉仕の精神」だったと思います。
嬉しいのはその精神が揺らぐことなく伝統として現在も守られていることです。理事会でも、職員の働きをみても強く感じます。
中城前理事長が75歳の時でしたか、東京都社会福祉協議会の海外研修にご一緒した時、フランスでもドイツでもスウェーデンでも、福祉先進国といわれた数々の施設で、最初に質問されたのも、荷物を持って先頭で歩かれたのも、疲れた顔を見せなかったのも全て中城イマさんでした。その積極性が今でも受け継がれていることが最大の遺産です。

理事 内野滋雄


 

2008年9月 理事のリレーメッセージ

敬老

稲穂と秋の空

「3年前はすくっと立ち上がれた。去年は壁につかまって立ち上がる。今年は杖がないとダメ。このさびしさがわかりますか」と老いることのさびしさをぶつけた傘寿のトメさん。
「あんな若造と一緒に生活できん。20歳も年が違えば、生きてきた時代が違うんだよ」
70歳と94歳では親子ほどの年齢のひらきがあり、世代が違う、年寄りをみんな一緒にするなと怒ったイワさん。
30代の私は、お年寄りの孤独感やいらだちに老いの真実を学びながら、養護老人ホームで「敬老」の意味を考えました。
1980年代に入ると、高齢者の福祉施策は充実し、お年寄りを尊重する気持ちが、社会に根づきつつあるように実感しました。
ところが1990年代の半ば、制度は大転換し、福祉法から保険法に変わりました。高齢者は「介護という負担」を伴う存在に位置づけられ、福祉施設は介護サービス提供施設になりました。お年寄りは要介護度に区分され、個性よりも要介護度がめだちます。
そして自分が高齢の入口にたった今、やはりひとりひとりのお年寄りが自分の人生の線上で、当たり前に必要な介添えやみまもり、あたたかないたわりの思いで支えられ、穏やかな日々を過ごせることを願います。
福祉の現場で働く人々はそうした支えになっていることを実感したときに、仕事の喜びを感じます。

常務理事 鈴木恂子
(社会福祉士)


 

2008年8月 理事のリレーメッセージ

裁判員制度について

ひまわり

2009年5月21日から裁判員制度が実施されます。
裁判官3人と裁判員6名の合議体が、死刑または無期懲役に当たる重罪事件を裁く制度。裁判員を辞退できるのは、自身の病気、同居人の介護等の特別の理由がある場合に限られる。公判前手続により証拠採否が裁判員関与前に予め決定されたうえで、法廷は連日開催され、比較的短期間(数日)で結審する。有罪か無罪かの判断、死刑か無期懲役かの量刑は9人の多数決により決する。裁判員には守秘義務が課され、評議の内容等を漏示したときは処罰(6か月以下の懲役または50万円以下の罰金)される。
裁判員制度は市民の司法への参加であると評価する向きもあるが、そうだろうか。
本来、市民の司法への参加とは、司法権の行使を市民がチェックすることにある。陪審制度のもとでは機能するが、裁判員制度のもとでは機能しないのではないか。映画「12人の怒れる男」が描いた陪審制度のもとでは、陪審員が全員一致で有罪の評決をしない限り、裁判所は有罪を宣告できない。司法権の行使が市民の常識によりチェックされるのである。仮に、全員有罪の評決をだしても、原則として量刑は裁判官がする。陪審員は徹頭徹尾、自分の良心に従えばよい。
しかし、裁判員制度のもと、生涯課される守秘義務の壁の中で、3人のプロ裁判官と6名の市民の密室での評議が、市民の常識を裁判に反映させることになるのか、大いに疑問がある。有罪か無罪かの評議に裁判官3名が加わり多数決制をとったことは、市民だけの評議を信用していない現れでもある。裁判員は、自身は無罪の評決をしたが、多数決により有罪の評決がされると、死刑か無期かの量刑の評決に加わらなければならない。有罪評決の多数決制と量刑への市民の参加は、市民の権力への疑似参加である。裁判員は司法権の行使の一員にされる。一部の人は傲岸になるかもしれない、他の人は権力への共犯意識により良心を傷つけられるかもしれない。
また、短期間の集中審理が弁護権をないがしろにする危険、感情的量刑による厳罰化への危惧などはないのか。
裁判員制度は、見直しの声があがっている不正規雇用を増大させた労働者派遣法、産業を破壊した規制緩和、社会福祉を危機に追いやる極端な小さな政府論、等々の数多の誤った政策の一つではないのか。裁判員制度の実施の推移をみながら、廃止に向けてのチェックを怠らないようにしたいと思う。

理事 板垣光繁
(江東総合法律事務所弁護士)


 

2008年7月 理事のリレーメッセージ

後期高齢者医療制度をめぐって

アサガオ

後期高齢者医療制度をめぐって政治の舞台まで大変な騒ぎになっている。「この制度は75歳以上の年寄りに死ねというのか」といった印象から大きな反発を招き、あわてて「長寿医療制度」と言い直したものの本質を変えずに名称だけ変えても、長年のうそつき政治を体験してきた高齢者をなだめることなど出来るはずもなかった。この制度は、もともと高齢者の医療費が年々高騰することに対して、考え出された医療費負担増を意図する制度であったわけだから、後期高齢者といおうが長寿といおうが、制度の抜本的な見直しをしない限り、その本質は変わらない。しかし政府・与党などは低所得層の負担軽減策だけを提案している。その制度提案では、喉もと過ぎれば財源問題からまた負担の引き上げを迫られるだけだということを見抜いておくべきだろう。財源問題の視点からの制度提案は、年金でも医療でも、利用者本位、国民本位の温かみは少しも伝わってこないのだ。

理事 小笠原祐次


 

2008年6月 理事のリレーメッセージ

学友の慰霊碑

梅の実

今朝庭に出てみると梅や杏や花梨の小さな実が少しずつ大きくなり、夏みかんやレモンの木に白い花がたくさんつき、もうかわいい緑色の実をつけはじめています。自然の恵みを感謝し平和な老後の生活をしみじみ味わった朝でした。しかし平和を感じる事は幸せですが、私たち戦争体験者には「戦争の記憶を風化させてはならない」と痛感しています。

終戦末期の昭和19年8月、女学生であった私たちは「学徒勤労動員実施要項」の閣議決定により4年生全員270名が航空機生産のため、三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所に動員されました。自然の美しい、のどかな長野県伊那市の女学校からの動員先は、大変過酷な生活でした。夏の酷暑から始まって東南海大地震、連日連夜繰り返される空襲等、死と向き合う日々でした。そうした中で昭和20年3月13日、米軍機の空爆に学友の一人があい死亡しました。毎年春になると学徒勤労動員の悲しい想い出が蘇り、戦争のむなしさ悲しさを伝えて行きたい。戦争を知らない人たちに「戦争はしてはいけない」との想いが強く沸いてきます。一人の学友を失って60余年、私たち生き残った学友が力を合わせて母校校庭に慰霊碑を建立しようと実行委員会をつくりました。募金を集め平成17年4月29日、80名の学友が長野県伊那弥生が丘高等学校に集まり、校庭で慰霊碑除幕式をすることができました。
「ふるさとに帰りきませと石に彫り生き残りたる者かなしむ」の鎮魂の歌を碑に彫り、後輩たちに平和の尊さを語りかけています。

理事 坂本信子


 

2008年5月 理事のリレーメッセージ

くらやみ祭

くらやみ祭

「くらやみ祭」は、毎年5月5日に行われる大國魂神社の例大祭の通称です。その由来は、江戸時代から昭和34年までは、夜の11時に六張の大太鼓に先導され、たくさんの提灯に守られた八基の御輿が神社から御旅所(旧甲州街道と府中街道との交差点南西)へと向かい安置した後、数時間後の午前4時に御旅所を出て神社へ帰るというように、暗闇のなかで行われていたことにあります。神社から御旅所へ向かうことを正しくは御輿発御といい、神社に帰ることを御輿還御と言うそうですが、一般的には「おいで」「おかえり」と呼ばれています。「おいで」の時、御輿が完全に通り過ぎる前に沿道の建物で電灯をつけると「まだ早い」と言われて、投石で窓ガラスを割られることもあったようです。
このように暗闇のなかで行われていたこと、「おいで」から「おかえり」までの時間が短く、御輿の担ぎ手が家に帰ることもなく、神社の周辺に居続けたことなどから喧嘩や暴動が絶えず、怪我人が毎年発生していました。このため昭和35年には、一部市民の要望や警察の要請もあり、御輿の渡御が中止されることになってしまいましたが、翌年には「おいで」の時間を午後の4時からとして、復活されました。
その後は、多くの関係者の安全で楽しい祭りへの取り組みが地道に続けられてきましたが、こうした努力が実り、祭りの関係者だけではなく、市民の間からも「くらやみ祭」復活への機運が高まってきました。そして平成14年に「おいで」の時間が午後6時からとなり、再びくらやみ祭らしい雰囲気が味わえるようになりました。
皆さんも是非一度は見物してみてください。

理事 石川國雄


 

2008年4月 理事のリレーメッセージ

冬日のように

桜

東大寺二月堂のお水取りも済んでお彼岸ともなるとすぐ花の季節、私たち老人にとってひと冬越した安堵感を覚えほっとします。
わたしが泉苑の施設長の頃、立冬の翌日の朝日新聞の折々のうた(大岡信氏)に、

百合根(ゆりね)煮て冬日のごとき妻たらむ
石田あき子

その解説によりますと、石田さんのご主人石田波郷氏は、戦中の軍隊生活の激務の中で結核となり除隊され、その後療養と度重なる手術を繰り返されながら、俳人として多くの傑出した仕事をなしとげられたとのことです。
この間、氏の看護、介護に献身されたのが奥様の石田あき子さんだそうです。
冬日というと、もの静かでいつくしみ深い愛にあふれて、縁側の日向ぼっこ、しみ入るような暖かさを感じます。
百合根は、ほんのりあまくほろにがさが持ち味です。
丹精こめてご主人様のためごとごとと煮えてゆく。やさしい心のこもったお料理に仕上がります。
冬日のような介護、高齢社会、特に私たち施設の仕事の中で、お薬のように大切なことだと思います。
職場の朝礼で、この句を時にお借りして、私たち心して常に冬日のような、やさしい思いで介護に当たるよう勉強してゆきたいと思います。

理事長 坂本巌


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